むさしの雑記

むさしの雑記

覚悟を重く捉えないようにする事と僕の昔と今と未来の話

覚悟って言葉を久しぶりに聞いて、やっぱり覚悟って大事だなとあらためて思った。だけど昔自分が考えていた覚悟と今感じている覚悟は違う気がする。

バンドの頃は貧乏でも自分にはそれが合っていてそんな自分をそのまま表現できればそれでいいと思っていた。コンプレックスの塊で、自分の殻に閉じこもり、自己の世界観をずっと作りあげてきた。そしてそんな自分だからこそアーティスト性があって特別な存在なんだと考えていた。だからアーティストとして生きていく覚悟みたいな事をひたすらに考えて二十代は過ごしていた。極端な性格でもあるから自分の世界が全てで周りの世界は関係ない。興味もなかった。

今はただただ社会で生きていくための覚悟を少しずつだけど感じている。サラリーマンとして生活している人達は社会の歯車としてこれから何十年も生きていく事を、色んな想いを持ちながら覚悟を決めて歩んでいるんだなと思った。

実際じゃあサラリーマンとしてそうやってずっと生きていく覚悟があるのかと言われれば正直そこまでではなく、もちろん覚悟は大事だけど、ずっとの話しではなく、今生きていくための覚悟があればいいのかなと僕は思っている。なんていうか自分が今何ができるのか、何をしたいのかを考えてやってみる事が今の僕には必要なのかなと。

それに覚悟って言葉は今の僕には重たくて、その言葉で自分を固めて身動き取れなくなりそうな気がする。冒頭にも言ったけど大事だとは思ってる。言い方というか捉え方の問題で軽い気持ちで考えたいということ。自分の考えや言葉で自分を縛ってしまうクセがあるもんだから、大事だけど軽く考えようねと自分に言い聞かせるわけだ。そうすれば軽い気持ちで前にも進めるし行動しやすくなると思う。

去年の僕は、アーティストとして生きていくことはもう無理だ、そもそも仕事も選べない、30歳超えて夢じゃ食えない、親にも迷惑かける、とか周りのことばっかり考えて、で自分は何をしたいの?って事がすっぽり抜けていた。というかそもそもそんなこと考える余裕が全くなかったんだけどね。

逆に言えば生きるという覚悟を決めた年だったのかもしれない。死にはしなかったけど、社会から外れてニートとしての人生を歩んでいた事も全然ないとは言い切れず僕は落ちぶれてそっちになるのだろうと本気で考えたくらいだし。今思えば去年の僕はメンタルとフィジカルの向上に全てを捧げたと言っても過言ではないかな。相当辛かったしあんな体験はもうしたくない。

そして今は仕事とお金を手に入れ、これはつまり自分の中では再出発なのである。周りからの言葉の壁を超えた僕はその先にある自分のやりたい事という自分の意思を見た。今は見ただけで、その意思がどんなもので何をしたいかはまだわからない。だけど自分の意思や気持ちをやっと考える事ができるようになったわけだ。

その自分のやりたい事の中にきっとアーティストの気持ちも入っているし、社会で生きていきたい気持ちも入っている。その意思や気持ちに後はちょっと覚悟を決めてあげたら以前の僕よりも少しだけ前に進めると思うな。

普通の事が出来るようになると言う事と僕の心の話

ブログを少し放置してしまうと書く気がどんどんなくなってしまってさらに放置してしまう。気がつけば1ヶ月経ってしまったわけで。

最近の僕といえば別の現場での仕事に追われています。自分の実力以上のことはどうやっても簡単にはいかないもので、なんとか毎日を過ごす日々。ただ周りの人は特に嫌な人などいなくなかなかいい環境だとは思うし、なんなら周りができる人だから僕だってそれなりにやる気を出してる。頑張りすぎる事は果たしていい事なのかは置いといて、周りの人からの影響を良くも悪くも受けてるから、この数ヶ月できっと成長できる事でしょう。

ひねくれ者な僕はいつだって斜に構えて、かと言えば、小心者なので、職場ではおとなしく至って真面目。うまく言えないけど居心地は悪いが、自分でも気づかないうちに自我が削られ周りと溶け込んでいくのでしょう。

お酒が弱く、かつ大学時代にお酒でのいい思い出が全くなく、飲まない人生を送っていて、この先もずっと飲むつもりなんてないと自分では思っていたんだけど、数日前ふと、ホントにふと、お酒を飲んでみようかなと思って10年ぶりくらいに飲んでみた。友人の結婚式に行った時に無理矢理渡された鏡月が目に入ったからなのかもしれない。とにかく飲んでみた。

特に美味しいとか酔っ払うこともなくだけどなんだか大人になったというか、普通の人になれた気がした。

僕はできない事が多い。だけどサラリーマンとして仕事をするようになって、乗れなかった電車に乗れるようになって、三食食べられなかったのにご飯も食べられるようになった。たくさんの人とコミュニケーションをとり、一人称がわたしになり、週5で働き、休日を楽しみにして、夜はお酒を飲む。他の人からすれば当たり前で普通の事が僕はできなかったのに、それがだんだんできるようになってきている。

昔は自分は恵まれちゃいけないとか、いい事があると悪い事が起きるとか、自分はお金や物をたくさん持っちゃいけないなんて事を考えていた。それはネガティブな気持ちとは思っていなくて自分にはそんな資格がないと本気で思ってた。

だけど願望ってのはあってそんな自分が世の中で生きていくためにはどうしたらいいかと子供のころの僕は考えて、アーティストならありのままの自分で生きていけるんじゃないかと音楽の道を進んでいったのがバントやるきっかけになった。自分の内包する今にも弾けてしまいそうな気持ちを楽曲という別の形で届ける事が、もしかしたら自分と同じ気持ちでいる人に届いたらいいなと思ってたのもある。本当は誰かに伝えたかった、認めて欲しかったんだと思う。

今の僕は意外と普通のこともできるということにだんだんと気付いてしまった。みんなとは違う、もしかしたら僕は特別なんじゃないかと思っていた節もある。だけどそんな事はなくて自分も普通なんだと分かってしまった。

普通の定義は正直曖昧なんだけど、いわゆる多数派の、多くの人がそうだと思われる事、そこに到達して僕は少し満足してしまったのかもしれない。そして同時に特別じゃない自分にがっかりしそして周りと同じ事に安心した。

これは良い事なのか悪い事なのかよくわからない。そもそも良い悪いで判断するものでもないけど僕は結構それで判断してしまう。好きか嫌いかとか、感情で判断することが多い。

今無理矢理まとめるなら好きじゃないけど良いかな。わかりづらい。

 

 

 

最近の僕の現状と僕の心の整理の話

最近またストレスを感じ始めてか体調が悪くなってきてる。お腹の調子が悪く不安感が強い。花粉の影響も多分あるのだけれど根本的原因はそれじゃない。仕事にどうしてもやりがいを感じられない。そもそも意を決して転職したのは残業して自分の時間を削ってまで働きたかったわけじゃない。今の仕事でスキルを身につけ次の仕事に活かす為だ。だけどなんだか遠回りをしている気がしている。本当にやりたい事の延長線上に今やってる事が乗っかって無いのだと気付いた。だから辞めたくなってきている。

じゃあ本当にやりたい事は何なのかと考えるとそれはまだ見つかっていないのが現状。じゃあ今何をすべきか。やはり具体的に何をしたいかを考えすぐに行動に移す事だよな。やりたく無い事はがすぐに出てくるのは、それがはっきり目に見えて分かる具体的な物だから。通勤とか人間関係とか残業とか。じゃあやりたい事はどうなのか。通勤も人間関係も残業もあるんじゃないか?だけど通勤が便利で人間関係が良好で残業しても苦にならなければいいんじゃないのか?

そう考えると根本的原因はもっと奥の方にある気がしてくるわけだ。通勤ならばどこで働きたいのか、人間関係ならどんな人と働きたいか、残業ならどういう風に働きたいか、それぞれを明確にしていく事が僕が今悩んでいる事の根本的改善に近付く一歩になる。悩んでいるときはなかなか冷静ではいられないし判断力も落ちる。そんな時ゆっくりでもいいから確実にその根本を見つける事ができれば、少なくとも原因と改善案は見えてくる。しかしながら結局のところその後に行動が待っているわけで、つまりはその考えを行動に移さないことには何も始まらない。

今の仕事に就くまでは正直そこまで考える事ができなかった。そんな余裕は僕にはなくそもそも転職前の僕のスペックで雇ってくれるところなどなく、とにかく雇ってくれるところにしがみ付くように今の仕事についたのが現状。しかしその判断は今思えばあまり懸命ではなく僕が感じているいる根本的違和感はそのまま。理由は簡単で働いているからにはサラリーはもらえるから。だけど言ってしまえばそれだけ。お金をもらえるから働く。お金を貰えなかったら?働かないでしょう。

周りからの圧力や判断、世間体や年齢、スキルや立ち位置など今まで自分が気にしてなかったことにひどく心を打ちのめされ、自尊心の低さから自分の価値を下げ卑下してしまったばっかりに今目の前の事すら冷静な判断ができず、結局は他人の判断に身を任せてしまった事が僕が今いる現状だということに書きながら気づきはじめた。

今の現場は三月で終わって四月からは別の現場で仕事をする。今のうちから少しでも行動を取らないと四月になって身動きすら取れなくなる可能性がある。と今考えたが考えてもあくまで可能性なのでいらない心配はいらない。もうそこでは悩まないと決めたのだ。先の未来は誰にもわからない。これは平等に起こり覆る事もない。だけど未来を見据えた延長線上に今やっている事があるなら、少なからずよくも悪くもその未来には近付くとは思う。つまりは未来は誰も分からないが今の行動が未来を作る、そしていらぬ心配をするなら今行動した方が確実に自分が想像した未来に近付く可能性が増えるという事。

今日書いた事は正直まだ結果を出した話ではないし、あくまでこうしたいという願望が大半を占めている。どちらかと言えば書きながら自分の気持ちを整理して次の行動へのモチベーションを高めるようなもんだ。というかそれしかない。自分に自分で言い聞かせてるわけだ。そんな事しなくても行動できる人はいるし、そもそも行動しなくたっていいんだし。だけど僕はしたい。今までならそれすらしなかっただろうし自分の現状をちゃんと理解できなかった。少しづつだけどこうやって文字に起こす事だって、自分の気持ちを理解したいという考えからくる行動だと自分が認識していれば、書き終わった時にどんな形であれ結果として現れる。それは小さいながらも自分が想像した未来に到達したとも言える。ああモヤモヤするなぁとモヤモヤをそのままにした結果得られる未来と、そのモヤモヤを解決まではいかなくても理解はしたいという未来があって、本当は考えた分だけ未来は無数にあるけれど、今とった行動が数分後の未来を変え、その後の行動を変え、その先の未来を変えていくといことが感覚的だとしても分かったから、僕はこうやってつらつらと文章を書く。

心の整理をする事でパフォーマンスは確実に上がる。だから心の違和感を無視し続ける事はもうしない。自分の気持ちに気づく事ができるのは結局のところ自分しかいないし、自分を疑ったり、卑下したり、価値を下げるような事はしたくない。結局は自分を愛する事が一番大事だし本質なんだよな。

30代で異業種転職した僕の今の現状とバンドの話

新しい仕事が始まって余り自分の時間が取れてない。土日を生きがいにする人生になるのかなぁとか思ったら嫌気がするよ。

去年は自分のメンタルとフィジカルをゼロから、いやマイナスからか、フラットまで持ち上げてそこから少しずつ回復をはかってきた。そして今年は環境を変え新しい仕事に転職し、世間的な体裁とお金を今後手に入れるようになったわけだが…正直仕事は大変でも大丈夫なんだけど、時間を取られるのが本当にイヤ。エンデも言ってる通り時間は心であり、心で時間を感じられないならないものも同じなんだよ。目で見て耳で聞くように心で感じる事が大切で、時間を盗られるという事は心も奪われてるわけ。

そんな僕がどうして自分の時間が取れないのかといえば、それは1つしかなく残業があるからである。いわゆる残業っていうのは業務効率の悪さと、仕事量と社員の破綻した采配の尻拭いみたいなもんで、その悪習がシステムとなり常習化していくという最悪の業務になってしまっている。残業ありきでの稼働はそもそも異常だということに誰しも気付いていながらそれを見て見ぬフリを続けているんだからその悪習は無くなることはないよな。小さな悪い習慣はそのうち取り返しのつかないところまで来てどこかで誰かが破綻するまで続いていく。周りがやってるんだからお前もやれの精神で個人の尊重はなくお互いが支えも認めもせずただひたすらに心を鈍化して時間をゴミのように捨てていく事に生産性は皆無であり、もはや業務ですらないのではないかと思えてくる。

バンドの時がまさにそうで僕がバンド活動を休止したのはこれが1番の理由。自分が好きだったものだから尚更、どうしても耐えられなかった。だけどそのおかしな現状をおかしいって自分で気付けない、実際に僕も途中まではそう思えなかった。悪習からくる同調意識は時として自分の個の感覚を麻痺させ心を鈍化させ自分の正しさを捻じ曲げてしまう。そうなれば現状と心のバランスを取るために捻じ曲がった正しさを本当の自分にさせるか、あるいはそれに耐えられず心が破綻する事になる。

身体に異変が起きた事でそれがおかしいと気づくサインとなりそこから徐々に自分の心を取り戻す事ができるようになったんだけど、気付いた時には心も身体もボロボロで、そもそも回復するのにすごく時間がかかった。そして僕はそんな悪い風習から抜ける事にしたわけ。はっきり言って悪習はぜったいに治らない。壊すかそこから自分が離れるしかない。おかしいと思ったらそこは自分の居場所ではない、もしくはもう自分がいられる環境では無くなってしまった、そう考えられるようになれれば別の所に行く選択も見えてくる。

元バンドマンであり、30代であり、未経験異業種転職でありでそもそもがベリーハードモードでのスタートなので逆に言えば仕事を手に入れたのはラッキーなのだ。だけど働き方、時間の使い方は僕が決めたい。もちろん全てが自分の思い通りにはならないが打診は惜しまない。実際今の業務はいわゆる客先常駐なので期限が来れば終わるし、少なくてもまだやれそうな事はあるからどうにかして時間をつくるのが今後の課題だな。今後そうならないために僕は僕でいるための努力を惜しまない。

 

寂しい僕の人付き合いと自己否定のお話

1人は寂しい。そんな事あんまり思った事なかったんだけど最近すごく寂しくて。理由は分かってて今までいた友達、知り合いがいなくなったから。バンドが止まってメンバーと会う機会も減ったし、引っ越しもして、仕事も辞めて新しい仕事を始めるし、今自分の環境が大きく変化している。もちろん自分で選んだんだしこの先また出会いはあると思うけど、こんなにも一気に変わったのは初めてで、本当にひとりぼっちになった気がして素直に寂しい。

もともと友好関係多いわけではないし、人付き合いは得意ではなくなんなら嫌いで、だけど自分の周りには沢山のひとがいて知らない内に寂しさを紛らわせてくれたのかと、いなくなって気付くというか少し人付き合いの必要性を感じた。そもそも人付き合いが嫌いなのは偏見が少なからずあったし同時に自分の自信のなさが強いと感じる部分もないとは言えない。

素直になれない性格は相変わらずでみんなができる事が出来ないし、大人数でワイワイするのはやっぱり嫌いだし、実際それでも良かったというかある意味素直に嫌な気持ちが顔に出ていた気もするけど、笑顔でいられる、くだらない事で笑えた方がもしかしたら楽しいんじゃないかなという気持ちもあるんだよ。へんなプライドとか拗らせた厨二心はまだあるけど、それと同列にそういう心をもってもいいんじゃないかなと思えるようになったのは、まぁ遅いけど今なんだから仕方ないよね。

僕もそうだけど自己否定強すぎる人は自分の良いところがホントに探せなくて、なにかと比較しては落ち込むってこと多い。こんな変なこと考えたり悩んだりするのが悪いみたいに思い込んでは落ち込むというループ。だけどそれって悪いとか悪くないとかそんな基準で測るのがそもそもおかしいって気づいてないよな。逆に振り回されてちゃんと自分を見てない。

自分を見てないのに他人と比較してもそれはちゃんとした比較にすらならない、比較したいならまずは自分をしっかり見ないと。本当に自分は変なの?曖昧な物差しで測ったものをそんなに信じなくてもいいんじゃない?悪いところをピックアップしては、それをどんな基準でダメだと決めつけるのさ。そんな曖昧な基準なら、基準をかえれば良いところにだってなるんじゃない?

自己否定はある意味自分をちゃんと知るための1つの鍵になる。そして自分を見つめ直すキッカケに必ずなる。と僕は思うな。

 

 

身体のメンテナンスの重要性と僕の鍼灸体験談

東洋医学だったり鍼灸だったり科学的根拠のないものは信じられないって昔はぼくも思ってたけど、科学的根拠があるから全てを信じるのもよく考えればおかしな話で。もちろん信憑性は高いのは事実だけど、自分が何を信じるのかは他人の判断以外に自分の判断も入れていいと思う。自分基準なら自分がいいなら良いと考えても問題ないし。もちろん手間とかリスクとかあるけど自分で良いと思ったってことはちゃんと経験したのち判断を下したり、もし失敗しても自分で選んだんだからって納得できる。

僕は鍼灸院に去年から通ってて、実際はどうかといったら、当たり前に科学的な装置もあってどっちかじゃなくて両方のやり方でやってる。どっちが正しいとかじゃなくて、患者がどうしたらよくなるかという事を考えた時、適切な施術方を用意する事が重要で、結果自分にとっても1番いい。もし鍼灸をやって効果がなければ鍼灸がダメなんじゃなくて、その人には結果が出なかった、だから別な方法を試せばいいんじゃないかな。

僕は実際にすごい効果があってストレスからくる胃の不調、肩こり、頭痛が劇的に軽減した。まず根底として外傷があるわけじゃなくて、僕の場合は内面がスタートでそこから体に不調が出てくるパターン。1番最初はしっかりとヒアリングをした上で2時間かけて全身をケアしてくれる感じ。半年くらいは3週間に一回のペースで、そのうちある程度症状が軽減してからは月に一度、そして今も月に一度だけど定期的な体のメンテナンスということで通ってます。通ってからはや1年経ったけどホント身体はよくなってる実感がある。

体のどこが悪いかによって施術内容は変わるけど僕の場合、全身のマッサージ、自律神経系の鍼治療、内臓系のお灸、顔のお灸、アスリートなども使う電流装置で肩や腰などの施術、自律神経系を良くする装置での施術、など…他にもいろいろやってもらってます。

東洋医学の考えで根底を良くすれば全体が良くなるってのは僕も大切だと思っていて、鍼灸によって心身共にメンテナンスする事でトータル的にパフォーマンスが上がりました。

ただし即効性はないので要は使い方次第だよね。ちなみに鍼灸院はその医院とか施術とかによるけど保険効かないのもあるみたい。僕は保険証出したことないです。

 

好きに生きることって?

好きに生きればいいんじゃない?というかそうしたいと思っていたはずなのに忘れていた、の方が感覚的に近いかも。音楽に憧れて上京した10代の時も、がむしゃらに音楽に時間とお金を費やしてきた20代も、僕の中では好きなように生きてきたと思う。だけど30代に入ってそれが上手くできなくなってしまった気がする。いわゆる一般的なレールからずっと外れながら生きてきた僕は周りからのプレッシャーと自分の今の現状に耐えられなくなってしまった。

いつまで夢を追いかけるの?いつまでアルバイトで生活するの?いつまで親に迷惑かけていきていくの?将来どうやって生きていくの?やりたいと思っていた音楽じゃ生活できないという事実と、30代になってこの先じゃあどうやって生活していくの?という現実に押し潰されてだんだん精神的にやられていったわけ。そしてドン底まで落ちた僕は数年辛い日々を過ごしやっと少しづつ変わっていったのが去年、2017年。

前に書いたけどカウンセリングはすごく助けになったし鍼灸は今も体のメンテナンスでかよってる。きっかけは小さいけどやっぱり行動することで自信がつくし、自分が変わったら少しまわりが変わっていく。必要な場所や人に自分が飛び込んだり会いに行けば自分をとりまく環境も少し変化していく。だから結局好きに生きればいい。死にそうになりながらどうしたら生きて行けるかもがいて、苦しんで、先ずは自分を生き返らせなきゃと思った時に何か1つでも見つけ出しやり始めた事が変わるきっかけになった。それは誰かに言われたんじゃなくて、自分で見つけて自分の意思で行動したから。なにか大それた好きなことで生きていくとかそんな事じゃ無くて自分で行動してそれに責任をもつことだって好きに生きる事だよ。